すっかりこのコーナーの存在を忘れていました。
いや、別に悪意ではなく(笑)
しかしこれが今年最初の更新ってどういうことだ。
気を取り直して、内容に入りたいと思います。
あ、その前に。
前回更新からあまりにも間があいたので、今までの記事一覧を書いておきます。
<第1回>説明はしない<第2回>五と七のリズム<第3回>体言止めの効用 タイトル見るだけでも小技感たっぷりですが、この小技が重要なときもあったり。
何より大切なのは、書くぜ!という心意気なわけですが。
さて。
では今回の内容へ入ります。
タイトルでは「読点で繋がず、句点で区切る」としましたが、つまりこれは一文における適切な長さを知るということです。
さっそく例を挙げてみます。
<例1>
街は活気に溢れて人波が切れることはなく、誰もが喜びに満ちた笑顔を見せていたが、それは彼にあてはまることはなく、悲しみと痛みを抱えて歩き続けることこそ、課せられた罰のように感じて、また一歩進みだすのだった。
いつも思うことですが、例を挙げるって難しいです。
無意識ならいくらでもできるのに。 さて、この文章が作品の冒頭にあったとします。小説において、いや他の創作でも同じだと思いますが、導入部分というのはとにかく重要なところです。
その重要な部分において、この文章を書くのはいただけません。
何がどういただけないかを見ていきたいと思います。
原則として、一つの文章において、主語は一つにするべきです。(もちろん例外はありますが。)
例文は、まず街の描写をして、その後、男の話になっています。
男の存在も街の景色の中の一つといえばそうですが、この一文を読めば、この男が物語の中で重要になることは予想できます。
それはもう景色の一つではなく、この時点においての物語の中心です。
もし景色に埋もれている雰囲気を出したいのなら、もっと違うアプローチで表現するべきです。
次に、基本的に長い一文というのは難しいということを、意識しておくことです。
学生時代、古文や英文の読解において、長い長い一文に苦労したという経験は、誰にでもあるのではないでしょうか。私はあります。めっちゃあります(しつこい)
でもそれって、本当にわからないのは、訳した日本語なんですよね。
一続きにして読むとわからない訳文も、実は思い切って区切ってしまうとわかりやすい。
じゃあもう、どんどん短い文にすればいいじゃんか。
・・・とは、簡単にいかないのが文章でして。
なぜ長文になるのか、についても考察を加えておこうと思います。
それは書き手の「怖れ」ではないかと思います。
つまり、文章を締める言葉として、同じ言葉が続いてしまうことを怖れているのです。
「〜だ(である)」、「〜だった(であった)」、「〜と思った」などが、2文3文と続いてしまうと、どうしても気持ち悪くなる。小学生の絵日記のようになってしまうこともありますから。
でもその気持ち悪さよりも、文章の意図を内容を読んでもらえないことの方がよっぽどしんどいことではないでしょうか。
同じ言葉が続いてしまうのは、修行不足。それに、続いたからといって、全てが悪いわけではないはずです。
自分の思うように書きたいという気持ちはもちろん大切ですが、たとえばWEBで公開するなら、読んでもらいたいという気持ちも大切なはずです。(その狭間でどう表現すべきか苦しみますが・・・)
話を例文に戻します。
人それぞれ、色々な書き方はあるかと思いますが、私なら以下のように書くと思います。
<例1´>
街は活気に溢れていた。人波は途絶えることなく、皆それぞれの喜びに笑顔を咲かせていた。
だが、光には必ず影が潜む。
男は流れに逆らうように、悲しみと痛みを抱えて街を歩いていた。光に憧れることも、影を厭うこともせず、課せられた刑罰を淡々とこなす囚人のように、一歩また一歩と行くのであった。
光の内から影の奥は見えない。男は往来の誰に見とめられることもない。誰の記憶にも残らない。
それこそが、彼の使命だ。
ちょっと、色をつけすぎた感がありますが・・・(汗)
冒頭だったら。ということも意識して、段落も短めにしてみました。
で。
えーっと、私の駄文で締めるのも飽き気味なので、美文でこの記事を締めくくろうと思います。
本当は私、長い一文が好きなんですよ。
いや、ほんとに。
勲は今それをどことはっきり決めたくない。決めたとて、決行後そこへ行き着くことができなければ甲斐がない。決めずにおいて、何か最後まで彼を見離さない神意によって、自然にそこへ導かれ、しらじらあけの松風が吹き通い、双肌脱いだその肌に凛烈な冬の朝の海気がしみ入り、やがてのぼる日が彼の血に染(にじ)んだ亡骸と赤松の幹を、あかあかと照らす場所がどこかにあるにちがいない。
――三島由紀夫『奔馬』新潮文庫316頁より抜粋
「あかあかと〜」のところで、痺れます。